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十牛図に学ぶ禅の智恵11

十牛図に学ぶ禅の智恵11


十牛図の10枚の絵から
禅の教えを読み解くお話も
今日で最後の1枚となりました。

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10枚目の絵は、

入鄽垂手(にってんすいしゅ)

です。



修行の果てに、
新しい自分に生まれ変わり、
再び、元の世界に戻っていくこと


を示しています。

序としてこう書かれています。

柴門(さいもん)独り掩うて、
千聖も知らず。
自己の風光を埋めて、
前賢の途轍に負(そむ)く。
瓢を堤げて市に入り、
杖を策(つ)いて家に還る。
酒肆(しゅし)魚行(ぎょこう)、
化して成仏せしむ。



こんな意味です。

ひっそりと柴の戸は、
ひっそりと閉ざされていて、
どんな聖者も、その真実を知ることはできない。

悟りの輝きをかくして、
昔の祖師の歩いた道に背くことに
なるかも知れない。
徳利をぶらさげて町にゆき、
杖をついて自分の家に還るだけだ。

酒屋や魚屋にも行って大衆と交わり、
感化して成仏させるのである。
彼はあたかも蓮や睡蓮が
汚い泥水の中から生長しても、
泥水(世俗)に汚されないように、
「世法即仏法」の生活を
民衆のなかで実践するだけだ。



布袋様のような姿となり、
脚を現し、腹をむきだし、
町にさすらい歩き、
子供と親しみ、笑い、
慈悲を世界にふりまいて
生きている姿を表しています。

一体これは何を意味するのでしょうか。

ここまで、
自分自身を見つめて、
真の自分とは何かを見つける旅が終わった時、
求めるものは、すでに自分のことではなくなっています。

この絵のように、
民衆の中に入って、
一緒に働き、一緒に泣き笑いをする、
そんな人になって、
初めて多くの人を救うことができるのでしょう。

つまり、
十牛図に示されている
禅の修行のゆきつくところは、
ここにあるのです。

自分のための修行、
自分を追求する修行の先でできること、
それは、修行で得たものを
人のために生かすこと
なのです。

この絵の布袋様が、
自分自身の究極の姿なのです。

周りの人の思惑や体裁などを一切考えず、
自分をはだかにして、何の気遣いもせず、
人々の中に混じって話をし、
そして手を差し伸べるのです。

まさに、
世のため、人のために生きることが、
修行の先にあるもの
なのでしょう。

そう考えると、
この絵は仏陀の姿にも見えますが、
布教するキリストの絵にも見えてしまうのは、
私だけでしょうか。

あらゆる宗教は、
突き詰めていくと同じことを発見し、
伝えているのかもしれません。

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終わりに

もともと十牛図に関心を持ったのは、
親友の小森谷さん、
彼は禅の研究家でもあり、
立ち姿もお坊さんのような人ですが、
彼に触発されたこともありました。

ただ、
海外でしばらく生活していた頃に
よく思ったことですが、
日本人はそう考えないな、
日本ならこうするだろうな、
などと思うことがよくありました。

私の行っていた国の多くは、
キリスト教の国でしたので、
宗教の違いもあります。

また、外国の国は全て、
一定の期間の歴史しかなく、
一時的に他国に侵略されたり、
支配されたりしているケースも多くあります。

ですから、
日本のように原始時代から単一民族で
侵略されることもなく、
悠久の歴史が続いている国は、
他にはありません。


そういう国の民族の血を受け継いで
いるからこそ、
日本人だからわかること、
日本人として生きる中で、
自然にDNAに埋め込まれたものが
あるということに気づきます。

例えば、
ゆがんだ侘び茶腕を見て素晴らしいと思うこと、
苔むした庭を見て美しいと感じること、
大きな岩、大木、山、海に、
神様や仏様がいると信じられること、

…など、
学校の授業で学んだわけでないにもかかわらず、
日本人が共通に共感できるものがあります。


そういう日本人らしさというものの根底には、
これまで見てきた仏教、特に禅の考え方が
ベースにある
のではないかと感じます。

もちろん、
朱子学、陽明学などの儒教の教えや、
八百万の神、神道な
ども、
私たちの文化の下地にあり、
レゾンデートルになっているのだと思います。

そういう意味で、
日本人として自分を知る手がかりとして
禅の智恵というものについて捉えてみました。

十牛図について書かれている本も
色々と読みましたが、
合わせて、日本の禅の始祖、
道元の「正法眼蔵」なども読みました。

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仏教や禅は、
なかなか難しいという先入観がありましたが、
この十牛図で見ていくと腹落ちする部分が
多くありました。

これからも、
少しずつ勉強を続けながら、
10枚の絵のように、
自分と対峙する心の修行をしていきたいと思います。

十牛図に学ぶ禅の智恵 1〜11




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十牛図に学ぶ禅の智恵10

十牛図に学ぶ禅の智恵10



さて、
十牛図もいよいよ
9枚目の図となりました。

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禅の教えの図も後残り2枚です。


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十牛図、その9枚目は、

返本還源(へんぽんげんげん)

です。


この図を見ると、
前回の円相のように、
真っ白ではありませんが、
ただ木があるだけの図です。

まさに、これも空(くう)の図です。

これが、

主客一体の境地

を表しているのです。

序にはこう書かれています。

本来清浄にして、
一塵を受けず。

有相の栄枯を観じて、
無為の凝寂に処す。

幻化に同じからず、
豈に修持を仮らんや。

水は緑に山は青うして、
坐(いなが)らに成敗を観る。  


このような意味になります。


本来の面目(真の自己)は清らかで、
塵ひとつ受けつけない。

仮りの世の栄枯盛衰を観察しつつ、
無為寂静(涅槃)の境地にいる。

しかし、空虚な幻化(まぼろし)とは違うのだ、
どうしてとりつくろう必要があろう。

川の水は緑をたたえ、山の姿はいよいよ青い。
居ながらにして、
万物の成功と失敗・栄枯盛衰の理を
ありのままに観るだけだ。



返本還源とは、
元の境地に還ってきたということです。

その元とは、何でしょうか。

鎌倉時代、宋から来日し、
建長寺に住み、
後に円覚寺を開山した無学祖元は、
こう言っています。

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喜び得たり  
人 空(くう)にして 
法も亦(ま)た 空なるを。

人とは空であり、
仏法もまた空であることが分かって、
うれしいことだ。

元とは、この空のことです。

空とは、
天地の間の一切の事物は、
すべて因果と縁から起こるものであって、
その実体はないのだということです。


この空に辿り着くと、
主観である自分と
客観である仏の教え、
その主客が一体化して
消え失せてしまう。

これが、
心境一如
という悟りの境地に
到達するということなのです。


天崎 拝


◆今日出逢った素敵な言葉◆

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喜び得たり  

人 空(くう)にして 

法も亦(ま)た 空なるを。

無学祖元





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十牛図に学ぶ禅の智恵 9

十牛図に学ぶ禅の智恵 9



十牛図で禅の教えを学びつつ、
10枚の絵について、
読み進んできました。

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この十牛図もいよいよ、
最後の3枚となりました。

十牛図、その8枚目です。

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図のように、
絵は全くありません。
ただの円のみです。

この絵のタイトルは、

人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)

です。


悟った自己を忘れ、
悟りも忘れ、
全てを忘れてしまった
無の境地

について表しています。


序にこう書かれています。

凡情脱落し、聖意皆な空ず。
有仏の処、遨遊(ごうゆう)
することを用いず、
無仏の処急に須(すべから)く走過すべし。

両頭に著(お)らざれば、
千眼も窺(うかが)い難し。
百鳥花を含むも、一場のモラ(もら)。



こんな意味になります。

迷いの気持(凡情)が抜け落ちて、
悟りの心もすっかりなくなった。

仏のいる世界に執着する必要もなく、
仏のいない世界(煩悩の世界)にも
足をとめずに走り抜けなければならない。

凡聖(両頭)のどちらにも
腰をすえていないから、
観音様の千眼さえ、
この正体を見てとることはできないだろう。

多くの鳥が花をくわえてきて供養することなど、
顔が赤らむような場面だ。



絵は至ってシンプル。
ただの丸だけです。

これを円相、えんそうと言います。

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この円は、
悟りや真理、仏性、宇宙全体などを
円形で象徴的に表現したものです。

何もない、空っぽの円の中に、
深い意味を込めているのです。

つまり、
「本来無一物」の真の事実、
真の自己の世界を示している
のです。

この境地に至って初めて、
本当の禅を修行したことになり、
自分の存在の意味に出会い、
自己の安心を得ることができる
のです。


また、
この円相は、
己の心をうつす窓である

とも言われています。

しかし、修行の階梯では、
未だ第八段階であり、
もう一段の修練が待っているのです。


天崎 拝


◆今日出逢った素敵な言葉◆


円相は、

己の心をうつす窓である





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十牛図に学ぶ禅の智恵 8

十牛図に学ぶ禅の智恵 8


禅の4大テキストのひとつ、十牛図を題材に、
禅の教えを学んでいます。

その 十牛図も、7枚目となりました。


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この図は、

忘牛存人(ぼうぎゅうそんにん)

と呼ばれています。

この図の意味は、
本来の自己、
真の自己とも呼ばれる牛を
すっかり忘れるという段階
です。

ここには、
このように書かれています。


法に二法無し、
牛を且(しばら)く宗と為す。

蹄兎(ていと)の異名に喩え、
筌魚(せんぎょ)の差別を顕わす。

金の鉱より出づるが如く、
月の雲に離るるに似たり。

一道の寒光、
威音(いおん)劫外(ごうげ)。>


こんな意味になります。

真理に二つあるわけではない。
牛を主題として、しばらく論じただけなのだ。

蹄(ひずめ)を持つ動物と兎が別ものであり、
筌(ふせご)と魚が違うのは話すまでもない。

ただ、牛を真の自己の喩えとして
用いたに過ぎないのだ。

真の自己は、
あたかも純金が金鉱からとり出され、
月が雲を抜けて出てくるのに似ている。

ちょうど、一すじの月の光が、
威音王仏(過去仏)よりも、
以前からあるのと同じように、
真の自己は、大昔から存在しているのだ。


これまで、
この牛を求めて修行を始めました。
そして牛を発見し(見牛)、
手に入れ(得牛)、
この牛ならしをし(牧牛)、
少しは言うことを聞く(騎牛帰家
修練を続けてきました。

20131020110210f55.jpg


こうして真の自己(牛)を求めて、
徹底追究してきた今、
その求める自己が全く無くなって、
真の自己も意識に全く上らない世界に
ついに到達したのです。

天崎 拝




◆今日出逢った素敵な言葉◆


金の鉱より出づるが如く、

月の雲に離るるに似たり。



真の自己は、

あたかも純金が金鉱からとり出され、

月が雲を抜けて出てくるのに似ている。



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十牛図に学ぶ禅の智恵 7

十牛図に学ぶ禅の智恵7



禅の4大テキストの一つ、
十牛図の一枚ずつから、
禅の教え、真の自分の見つけ方
について学んでおります。

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いよいよ6枚目となりました。

6枚目は、

騎牛帰家 (きぎゅうきか)

です。


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暴れて言うことを聞かなかった牛に
またがって家に帰るという絵です。

牧牛のここまでの努力の結果、
牛がようやく自分の云うことを
聞くようになったという段階に入りました。


この絵には、
このように書かれています。


干戈(かんか)已(すで)に罷(や)み、
得失還(ま)た空ず。
樵子(しょうし)の村歌を唱え、
児童の野曲を吹く。
身を牛上に横たえ、
目は雲霄(うんしょう)を視る。
呼喚(こかん)すれども回(かえ)らず、
撈籠(ろうろう)すれども、
住(とど)まらず。


このような意味になります。

牛と自分との格闘、
つまり修行での心の戦いも
とうとう終わった。

牛を再び捕らえることも、
放すことももうない。

きこりの歌う田舎の歌を口ずさみ、
笛で童歌を奏でる。

気ままに牛の背にまたがって、
遠く大空を見ている。

このような人を誰も呼びかえすこともできず、
引きととどめることもできないだろう。


長い修行の結果、
真の自分と向かい合った自分は、
まるでおとなしくなった牛に乗るように、
悠然と我が家に帰りたいと思っています。

よく見るともう綱が無くなっています。
綱が無くなるということは、
牧牛と牛が一体になっており、
牛が牧人を乗せている、
そういうつながりとなったのです。

ここで本当に自己と自己との調和
つまり、
自己と自己が分裂や葛藤を克服して
ようやく真の自己と一体になったわけです。

ところで、
この牧牛は、なぜ楽しそうに笛を吹きながら、
のんびりと家に帰って行くのでしょうか。

やっとの思いで牛をつかまえ、
手なずけたからでしょうか。

でもそれは、
実は「元に戻った」にすぎません。

牧牛が満足しているのは、
誰に言われるでもなく、
自分から牛を探し始めたから、
ではないでしょうか。

自分の足で歩きまわって、
色々大変な思いをしてきたことは、
自分だけの財産です。

つまり、
「元に戻った」ことと
「何もしなかった」ことは、
同じではない
ということなのです。

それが修行の意味なのでしょう。


天崎 拝



◆今日出逢った素敵な言葉◆

「元に戻った」ことは、

「何もしなかった」ことは、同じではない。

そこに修行の意味がある。




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十牛図に学ぶ禅の智恵6

十牛図に学ぶ禅の智恵6



さて今週も、十牛図を見ていきましょう。

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十牛図も5つ目に入りました。

牧 牛(ぼくご)です。

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漸く手に入れた牛の持つ野生の
煩悩や我執などを、
修行を通して飼い馴らして
徐々に自分のものにしていく段階です。


この絵には、こう書かれています。

前思わずかに起これば、
後念相随う。
覚に由るが故に以って真となり、
迷に在るが故に而も妄となる。

境によって有なるにあらず、
唯自心より生ず。
鼻索(びさく)牢(つよ)く
牽(ひ)いて擬議(ぎぎ)を容(い)れざれ。


こんな意味です。

ある思いが起こると、
その後から別の思い続いて起こる。
本心にめざめること(覚)で、
真に悟るのである。

本心を見失っているから、
迷うのだ。
それは外界(境)のせいではなく、
すべて自分の心から生まれるのだ。
迷いが生じた時には、
すぐ牛の鼻につないだ手綱を
強く引いて訓練しなければならない。



掴えた牛を飼いならしていくため、
つまり、真の自分になるために、
しっかりと手綱を持ち、
片時も自分の身から離さないように
しなければならないと言います。

そうしないと
人は簡単に煩悩やエゴの世界に
行ってしまうからです。

そのように真剣になって、
牛を飼い馴らすように、
自分と対峙して鍛えていくと
心が段々柔軟となり、
ピュアになっていきます。

そして、
牛が自然に人について来るようになり、
牛と自分は一体化していくのです。

京都大学名誉教授の上田閑照氏は、
こう言います。

修行に励むうちに、
次第に和(なご)んできて、
自分との葛藤が少しずつ緩(ゆる)んでくる。
ここはそれを表している。
だから牛を飼い馴らすということ。
修行と言っても一生懸命坐禅をする
というあり方よりも坐禅から離れずに、
日々の生活そのものを修行として、
注意深く生活全体を行じていくという、
「日常工夫」という段階に入っている。



これを禅の世界では、
せぬ時の坐禅
あるいは、
動中の工夫
というそうです。

こんな和歌が添えられています。


日数経て 野飼いの牛も 手なるれば

身に添う影と なるぞ嬉しき



まさに、心牛一如に向かう、
最後の修行ということでしょう。

天崎 拝



◆今日出逢った素敵な言葉◆


日常工夫

せぬ時の坐禅

動中の工夫




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十牛図に学ぶ禅の智恵5

十牛図に学ぶ禅の教え5



しばらく、
禅の有名なテキスト、
十牛図の10の絵から学ぶ
禅の教えについて書いています。

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今日は、4つ目の図、
得牛 です。

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真の自己である牛を、
しっかり掴まえ、
牛の正体が明瞭になった段階です。


この絵の序には、こうあります。

久しく郊外に埋もれて今日渠(かれ)に逢う。
境勝れたるに由って以って追い難し。
芳叢を恋いて而も已まず、頑心尚勇み、野生猶存す。
純和を得んと欲せば必ず鞭撻を加えよ。


このような意味になります。

長らく郊外の野原にかくれていた牛に、
今日やっとめぐり逢った。
この牛は、無心で優れているが、
自由奔放な野性を持つので、
なかなか追いつくことができない。

牛はこれまでさ迷っていた野原の草が
まだ気になるようで自分の方を振り向きもしない。

まだまだ強く野性が残っているからだ。
牛をおとなしくさせたいなら、
厳しく鞭を当てて訓練をしなければならない。


力を尽くして、
ようやく牛の鼻を掴まえることが
できたわけですが、
牛を掴まえてみると、
この牛はまだ盛んに自己主張をして
いうことを聞きません。

この牛の野生を取り除くのは
なかなか難しいのです。
せっかく掴んだ手綱が、
ともすると切れて牛は、
逃げそうになります。

まだ本当の自分を掴み切った
わけではないのです。

なぜ難しいのでしょうか。

京都大学名誉教授の上田閑照氏は、

修行の中で、坐禅によって真の自己の具体性が
だんだん現実になってくる。
そういう中で、逆に体の中に染み込んでいる
煩悩と煩悩を動かしている「我(が)」が、
今度は反抗的に出てくる


のだと言います。

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仏典の一つ『涅槃経』に、
一切衆生悉有仏性」とあります。

つまり、仏教の世界では、
元々全ての人に仏性がある、
仏陀と同じ本性を持っている
のだと言います。

生きとし生けるものは、
みな仏陀(完成された覚者)と
成り得る資質を持っている
というのです。

しかし、
普段何もしないと、
人は色々な欲や煩悩を抱えていますので、
せっかく修行して真実の自己、
つまり仏性、仏陀の悟りにたどり着いても、
自我、エゴ、我欲が出てきて、
葛藤してしまうわけです。

この自我と仏性の葛藤を、
手綱をグッと引っ張り暴れる牛で
表しているのです。

この絵には、最後に
こんな和歌が添えられています。


放さじと 思えばいとど こころ牛

これぞまことの きづななりけり



煩悩や我欲を持った自分、
悟りを開いた自分、
その押し合い、引き合いという
葛藤もふたつの自分自身の絆なのでしょう。


天崎 拝



◆今日出逢った素敵な言葉◆


一切衆生悉有仏性

生きとし生けるもの


すべてが仏陀の心を持つことができる

『涅槃経』 大乗仏教の教え




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十牛図に学ぶ禅の教え 4

十牛図に学ぶ禅の教え4


今日も引き続き、
禅の修行と悟りの境地を
牛と牧人の物語で描いた十牛図に
ついて見ていきましょう。

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ここまでの2枚の絵は、
逃げだした牛を求めて牧人は旅に出て
牛の足跡を見つけるという所でした。
つまり、
真の自分を見つけるために、
修行を始めた修行者は、
わずかにその手がかりを見つけます。



20131029221524788.jpg



十牛図3枚目の絵は、

見 牛(けんぎゅう)です。


自分の中の心牛を見つけるという場面です。

序にはこうあります。

声より得入すれば、見処(けんじょ)源に逢う。
六根門着着(じゃくじゃく)差(たが)うことなし。
動用(どうゆう)の中頭頭(ずず)顕露(けんろ)す。
水中の塩味(えんみ)、色裏(しきり)の膠青(こうせい)。
眉毛(びもう)をサツ上(さつじょう)すれば、
是れ他物(たもつ)に非ず。



こんな意味になります。

声を聞いて牛、つまり真の自分に
会うことができる。
六つの感覚の一つひとつで感じることができる。

また、日常の動作にも
それが現われている。

塩水に含まれている塩味や、
絵の具に使われる膠のようなものだ。

眉毛を上げて眼をしっかりと見開けば、
牛はほかでもない、
まさに自分そのものではないか。


ここで、修行の第一段階に到達したことになります。
禅でいうところの見性です。
つまり、
真の自分に気づいた体験をするという段階です。


道元禅師の「正法眼蔵」にこう書かれています。


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仏道をならうというは、自己をならうなり。 


自己はそのまま仏性であり、
本来は仏そのものなのです。

だから、
仏の道というのは、
自分自身をならうことであり、
ならいつくしたところで、
仏と一致するのだと言います。

それでは、
どうしたら自分自身を
ならうことができるのでしょうか。

道元はこう続けます。


自己をならうというは、
自己をわするるなり。 



つまり、
ならう方法は、
自分をわすれることだというのです。

私が…、私のこと…と言った「我」を捨てる
ことなのです。

我、エゴを捨てるというのは、
非常に難しいことです。

無我夢中という言葉がありますが、
仏への道は、まさに無我夢中で、
自分を捨てることであり、
捨て切ったときに初めて、
仏と一つになることができる。


道元禅師は、
禅のあり方をこう言い切っているのです。



◆今日出逢った素敵な言葉◆

仏道をならうというは、

自己をならうなり。 

自己をならうというは、

自己をわするるなり。 

道元禅師









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十牛図から禅の智恵を学ぶ 3

十牛図から禅の智恵を学ぶ 3



先週から、十牛図をテーマに
日本人の思想体系の中核の一つである禅の教え
について考えています。

道元から始まる日本の禅の思想は、
その後、鎌倉末期から室町時代にかけて、
中国の代表的な禅書を4つにまとめ、
それを基本として学びました。

それが、
禅宗四部録と言われるものです。
その4つとは、

三祖大師 信心銘
永嘉真覚大師 証道歌
住鼎州梁山廓庵和尚 十牛図
坐禅儀


です。

このうちのひとつが、
十牛図なのです。
他の3つは、私もまだ読んだことはありませんが、
是非チャレンジしたいと思います。

前回も書きましたが、
禅宗では、真の自分(本来の面目)を
牛に例えるそうです。
そもそも、釈迦の個人名であるゴーダマは、
牛を意味する言葉であり、
牛は、仏陀の真理の純粋さのシンボルとなっています。

インドで、牛が大事にされるのも、
なるほどとうなずけます。

そして、
禅の修行と悟りの境地を
牛と牧人の物語に例えたのが、
この十牛図なのです。

20131020110210f55.jpg


逃げだした牛を連れ戻し、
飼いならす修行のステップを
10枚の絵で分かり易く描いて
説明したのが十牛図です。

シンプルでわかりやすいですが、
非常に深い内容となっています。

さて、今日は、
十牛図、2枚目の絵です。

20131028091246f07.jpg



この絵のタイトルは、
見 跡(けんじゃく)です。

つまり、
真の自分である牛の足跡を
見つけるという絵です。

序には、こうあります。

経に依って義を解し、教えを閲して跡を知る。
衆器の一金たることを明らめ、万物を体して自己と為す。
邪正弁ぜずんば真偽何ぞ分たん。
未だこの門に入らざれば権(か)りに跡を見ると為す。


意味は、こうです。

経典や先人の語録を読んで牛、
つまり、真の自分を見つける手掛かり
である足跡を見つけることが出来た。

金物には色々な物があるが、
元は同じ金属からできている。
それと同じように、
全てのものが自分と同じである
ということを実感する。

禅の世界に入らずに、
真の自分である牛の足跡が
本物かどうかを見分けることが
できるのだろうか。

まだ禅の門に入っていないならば、
それは、足跡を少しばかり
見つけたに過ぎないのだ。



見跡とは、
牛の足跡を見つけたということです。

つまり、
仏教や禅関係の本を読み、
思想としてそれを理解したという段階に
入ったということです。

言い換えれば、
牛がいる、つまり
真の自分というものがあるということを
まず頭で理解した
という段階です。

しかし、
これはあくまでも、
頭の中の理解でしかありません。
言って見れば、
知識として知ったというだけに過ぎません。

実践が伴わない以上、
それは禅を本当にわかったということにはならず、
見跡、つまり足跡をちらっと見つけたに過ぎない
ということです。

これは、ビジネスの世界でも
同じことが言えます。

本を読んだり、話を聞いたり、事例を見たりして、
私たちは分かった気になってしまいます。

確かに、どんなビジネスの成功にも、
その核となるエッセンス、ポイントがあるということは、
勉強すれば分かることです。

しかし、
多くの場合、そこで終わってしまいがちです。
情報を収集して、わかった気になるということです。

重要なのは、

そうでなければ、
この会社はすごい、あの人はできる、
しかし、うちの会社とは関係ない、
ということで終わってしまいます。

単なる情報収集や評論は、
ビジネス上では、何の意味もありません。

私たちの日常のビジネスの世界で、
このような思考停止が、
あまりにも多いのではないでしょうか。

これでは、
勉強した時間が無駄になりますし、
わかった気になっていることで、
それ以上何もしなければ、
進歩も変化も起こせません。

人から聞いたこと、本で読んだことを
自分のことのように話すだけで、
実践が伴ってなければ、
単なる物知り、評論家に過ぎないのです。

大事なことは、いかに自分事にするかです。

自分事にするには、
その知ったことを自身のビジネスに当てはめて、
具体的に何ができるのか、どう応用できるのか、
何が変えられるか、などど考えること
です。

そして、
考えたことをまず、実行してみることです。
実際に自分でやってみると、
何が大変なのか、どこがポイントなのかが、
わかります。

うまくいかない場合、
その理由は何なのかを考えると
さらに新しい発見があり、
打ち手を修正することで、
進歩していきます。

このように、
本当に分かるということは、
実行すること
なのです。

知ることと実行することは、一つなのです。

真の自分を知る旅は、続きます。


天崎 拝


十牛図―禅の悟りにいたる十のプロセス十牛図―禅の悟りにいたる十のプロセス
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◆今日出逢った素敵な言葉◆


心ざし 深き深山の 甲斐ありて

枝折の跡を 見るぞ嬉しき





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十牛図から禅の智恵を学ぶ 2

十牛図から禅の智恵を学ぶ 2




今週から、十牛図をテーマに
日本人の思想体系の中核の一つである禅の教え
について考えています。

禅宗では、真の自分(本来の面目)を牛に例えるそうです。
釈迦の個人名であるゴーダマは、
牛を意味する言葉であり、
法華経にも白牛は、文明のシンボルとして描かれ、
涅槃経にも乳から酥、酥から醍醐が生まれるように
仏陀の真理の純粋さを示しています。

これらと同じように、
禅の修行と悟りの境地を
逃げだした牛を連れ戻し、
飼いならす修行のステップを
10枚の絵で分かり易く描いて
説明したのが十牛図です。

十牛図全図

20131020110210f55.jpg




日本においては、廓庵禅師が作ったものが
最も有名です。

この廓庵十牛図の十枚の図には、
まず廓庵禅師が「頌」をつけ、
廓庵の弟子慈遠 が 、
「総序」と頌の一つ一つに「小序」を
つけています。

十牛図には、童子と牛が描かれています。

ここで牛とは、我々が求めている真の自己(本来の面目)、
この真の自己=心牛を禅の体験によって、
探し求める修行者を童子
として描いています。


さて、
今日はその一枚目、
尋 牛(じんぎゅう)について見て見ましょう。

尋牛の図

20131020150226be0.jpg




序としてこう書かれています。


従来失せず、何ぞ追尋を用いん。
背覚に由って、以って疎と成り、
向塵に在って遂に失す。
家山漸く遠く岐路俄かに差う。
得失熾然として是非鋒の如くに起こる。



こんな意味です。

初めから見失っていないのに
どうして追い求める必要があろうか?

覚めている目をそこからそむけるから、
離れてしまうのだ。

外に求めるから、
真の自己を見失ってしまうのだ。

真の自己からどんどん遠ざかり、
別れ道を間違って進んでしまう。

だから、
得るとか、失うという意識が、
火のように燃え上がり、
是非の思いがむらがる刀の穂先
のように湧き起こってしまうのだ。

頌として、
このような詩が書かれています。


茫茫(ぼうぼう)として
草を撥(はら)って去って追尋す。
水濶(ひろ)く山遥かにして路更に深し。
力尽き神(しん)疲れて覓(もと)むるに処なし。
但だ聞く楓樹(ふうじゅ)に晩蝉(ばんせん)の吟ずるを。



このような意味になります。

私は次々に湧き出る草のような雑念を追い払って、
一生懸命、真の自己である牛を探している。

しかし、 どこまで行っても、
川の水は広く、山並みが遥かに続くように、
煩悩や妄想は、どんどん湧き起こり、
その道は果てしなく遠い。

私は体力も尽き、精神も疲れ果てて、
どうしてよいかわからない。
これ以上、何をど求めればよいのだろう。

楓の木でヒグラシがしきりに鳴くように、
雑念や妄想が沸き起こってくる。
これで、今日もまた空しく日が暮れるのだろうか。

自分は誰なのか。
自分は何のために生まれてきたのか。

これは、哲学者のみならず、
あらゆる人が一度は考える問題ではないでしょうか。

答えのない問い、
永遠の問い
かもしれません。

十牛図では、それを
牛を尋ねる、捜すという表現をしています。

これは、
まさに禅の修行の第一歩です。

しかし、
いきなり出鼻を挫くことが、
書かれています。

この尋ねるということ自体が、
そもそも誤りであると言うのです。

むしろ、あらゆる問題は、
ここから始まると言います。

なくしていないものを、
なくしたと思って捜しているのだと言うのです。

では、
失ったもの、真の自己とは、
どこにあるのでしょうか。

本来の自己、失った牛は、
自分自身の内にあるのです。

自分自身の中にあることを知らずに、
探しに出ようとすることについて、
疑問を投げかけるのです。

曹洞宗の始祖、道元の考えをまとめた
修証義』の第五章に、
「即心是仏」ということが
書かれています。



修証義に聞く―道元禅の真髄修証義に聞く―道元禅の真髄
(1996/10)
松原 泰道

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道元は、
心がそのまま仏であると言っています。

この心というのが、ポイントであり、
私たちが普通に持っている欲望や
自己中心的な心ではありません。

ここでいう「心」というのは、
心の奥の奥にある純粋な心であり、
仏教ではそれを「仏性」とも呼んでいます。

この心の奥底に潜む仏性にたどり着くことが
できた時に私たちは悟りを開いた
と言います。

このように、
元々仏である自分が、自らに仏を求める
というのが仏の教えをであり、
坐禅という修行を通じて、
全ての人が仏となることができる
と言います。

ですから、
座禅は心の除草をするということであり、
雑草を取り払った心の底に、
自分の仏性を見出していきます。

まさに『尋牛』にある、
「茫茫(ぼうぼう)として
草を撥(はら)って去って追尋す。」

なのです。



◆今日出逢った素敵な言葉◆


尋ねゆく みやまの牛は 見えずして

只うつせみの 声のみぞする

京都東福寺 正徹



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上田 閑照、柳田 聖山 他

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