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十牛図から禅の智恵を学ぶ 2

十牛図から禅の智恵を学ぶ 2




今週から、十牛図をテーマに
日本人の思想体系の中核の一つである禅の教え
について考えています。

禅宗では、真の自分(本来の面目)を牛に例えるそうです。
釈迦の個人名であるゴーダマは、
牛を意味する言葉であり、
法華経にも白牛は、文明のシンボルとして描かれ、
涅槃経にも乳から酥、酥から醍醐が生まれるように
仏陀の真理の純粋さを示しています。

これらと同じように、
禅の修行と悟りの境地を
逃げだした牛を連れ戻し、
飼いならす修行のステップを
10枚の絵で分かり易く描いて
説明したのが十牛図です。

十牛図全図

20131020110210f55.jpg




日本においては、廓庵禅師が作ったものが
最も有名です。

この廓庵十牛図の十枚の図には、
まず廓庵禅師が「頌」をつけ、
廓庵の弟子慈遠 が 、
「総序」と頌の一つ一つに「小序」を
つけています。

十牛図には、童子と牛が描かれています。

ここで牛とは、我々が求めている真の自己(本来の面目)、
この真の自己=心牛を禅の体験によって、
探し求める修行者を童子
として描いています。


さて、
今日はその一枚目、
尋 牛(じんぎゅう)について見て見ましょう。

尋牛の図

20131020150226be0.jpg




序としてこう書かれています。


従来失せず、何ぞ追尋を用いん。
背覚に由って、以って疎と成り、
向塵に在って遂に失す。
家山漸く遠く岐路俄かに差う。
得失熾然として是非鋒の如くに起こる。



こんな意味です。

初めから見失っていないのに
どうして追い求める必要があろうか?

覚めている目をそこからそむけるから、
離れてしまうのだ。

外に求めるから、
真の自己を見失ってしまうのだ。

真の自己からどんどん遠ざかり、
別れ道を間違って進んでしまう。

だから、
得るとか、失うという意識が、
火のように燃え上がり、
是非の思いがむらがる刀の穂先
のように湧き起こってしまうのだ。

頌として、
このような詩が書かれています。


茫茫(ぼうぼう)として
草を撥(はら)って去って追尋す。
水濶(ひろ)く山遥かにして路更に深し。
力尽き神(しん)疲れて覓(もと)むるに処なし。
但だ聞く楓樹(ふうじゅ)に晩蝉(ばんせん)の吟ずるを。



このような意味になります。

私は次々に湧き出る草のような雑念を追い払って、
一生懸命、真の自己である牛を探している。

しかし、 どこまで行っても、
川の水は広く、山並みが遥かに続くように、
煩悩や妄想は、どんどん湧き起こり、
その道は果てしなく遠い。

私は体力も尽き、精神も疲れ果てて、
どうしてよいかわからない。
これ以上、何をど求めればよいのだろう。

楓の木でヒグラシがしきりに鳴くように、
雑念や妄想が沸き起こってくる。
これで、今日もまた空しく日が暮れるのだろうか。

自分は誰なのか。
自分は何のために生まれてきたのか。

これは、哲学者のみならず、
あらゆる人が一度は考える問題ではないでしょうか。

答えのない問い、
永遠の問い
かもしれません。

十牛図では、それを
牛を尋ねる、捜すという表現をしています。

これは、
まさに禅の修行の第一歩です。

しかし、
いきなり出鼻を挫くことが、
書かれています。

この尋ねるということ自体が、
そもそも誤りであると言うのです。

むしろ、あらゆる問題は、
ここから始まると言います。

なくしていないものを、
なくしたと思って捜しているのだと言うのです。

では、
失ったもの、真の自己とは、
どこにあるのでしょうか。

本来の自己、失った牛は、
自分自身の内にあるのです。

自分自身の中にあることを知らずに、
探しに出ようとすることについて、
疑問を投げかけるのです。

曹洞宗の始祖、道元の考えをまとめた
修証義』の第五章に、
「即心是仏」ということが
書かれています。



修証義に聞く―道元禅の真髄修証義に聞く―道元禅の真髄
(1996/10)
松原 泰道

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道元は、
心がそのまま仏であると言っています。

この心というのが、ポイントであり、
私たちが普通に持っている欲望や
自己中心的な心ではありません。

ここでいう「心」というのは、
心の奥の奥にある純粋な心であり、
仏教ではそれを「仏性」とも呼んでいます。

この心の奥底に潜む仏性にたどり着くことが
できた時に私たちは悟りを開いた
と言います。

このように、
元々仏である自分が、自らに仏を求める
というのが仏の教えをであり、
坐禅という修行を通じて、
全ての人が仏となることができる
と言います。

ですから、
座禅は心の除草をするということであり、
雑草を取り払った心の底に、
自分の仏性を見出していきます。

まさに『尋牛』にある、
「茫茫(ぼうぼう)として
草を撥(はら)って去って追尋す。」

なのです。



◆今日出逢った素敵な言葉◆


尋ねゆく みやまの牛は 見えずして

只うつせみの 声のみぞする

京都東福寺 正徹



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(1992/11)
上田 閑照、柳田 聖山 他

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